和風毛バリ釣り。テンカラの語源は蝶々だった!
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 現在、和風の毛バリ釣りは全国でテンカラと呼ばれていますが、それまでは一般的にトバシとかタタキと呼ばれていました。
 テンカラという言葉は、昭和40年以降、山本素石のエッセイによって広く世間に知られるようになった新しい言葉です。
素石は木曽の開業医で日本を代表する毛バリ師だった杉本秀樹さんからテンカラを教わり、その杉本医師は昭和32年に土地の古老から教わりました。テンカラとはいったいどこから来た言葉なのでしょうか。

 山に行けばヒル(蛭)がいます。これがじつはテンカラの祖先となる言葉なのです。
ヒルは咬まれるとヒリヒリするからヒルと呼ばれます。古代の文献には、蝶になる前の毛虫もヒヒルと呼ぶと記されているそうです。「物類称呼」に、蝶のことがテゴナと記されていて、この語と蝶の毛虫のヒヒルは同系列の言葉です。

蝶は「空高く飛ぶヒヒル」という意味でタカヒヒルと呼ばれていました。これが変化してタカヒルやタカエロになり、テゴナになり、さらに各地でどんどん変化してテビラコやテンガラコになりました。方言辞典を見ると、青森県で蝶のことがテガラ・テンガラと呼ばれることが判ります。南部でテンカラ・テングラ。岩手県八戸でテンカラコ。秋田県鹿角郡でテンカコという地方名が記載されています。複数の方言辞典で確認しました。

 「日本釣り紀行」の小口修平さんは、杉本医師に問い合わせをして返書を得ています。
「木曽におけるテンカラの呼称は、どこから出たものかわからない。私見としては古くから東北に"てんから釣り"という言い方があるそうだが、木曽は昔、皇室の御料林があって、その山仕事に秋田方面から人が来て、それらの人がこの釣りをテンカラ釣りとして伝えたのではなかろうか」(つり人社・日本釣り紀行1)杉本博士は地元の郷土史家の意見を添え、東北方面を調べてはいかがかと述べています。

 テンカラが初めて文献に登場したのは1838年です。秋田県佐竹藩で米倉の役人をしていた吉成市左衛門が、雄物川周辺でヤマメやウグイを釣り、釣行記「萬之覚」の中で「宮内テンガラ而、鱒ノ子舟場上ニ而十余釣居候」と記録したのが最初だとされます。
 歴史上、テンカラが初めて登場したのは秋田県で、その周辺の古い言葉でテンカラと言えば蝶々のことです。

 1844年発行の「重修本草綱目啓蒙」にも、蝶のことを古歌で"からてふ"と呼んだことが記されているそうです。"からてふ"もヒヒルからタカヒヒルとなって生まれたバリエーションのひとつでしょう。
 ともかく、テンカラという、手がかりすら見つからなかったナゾの4文字に意味があることが判りました。西洋で毛バリをフライと呼ぶところを、たまたま東北地方では蝶々と呼んだのです。蚕も蛾も蝶も各地でヒルと呼ばれていました。もしかしたら西洋でフライが羽虫全体を差すように、カゲロウやブヨなども含めてテンカラと呼んだのかも知れません。

 いずれにせよ、テンカラが蝶々だというのは、実際にテンカラ釣りをご存じの人にとっては「ああ、なるほどね」と感じられるネーミングだと思われます。
 佐藤垢石は「魚の釣り方」で"蝶が水の表面を叩く様な要領で、竿を上下に叩く。・・中略・・蝶が逃げたかのやうに、一たん竿を上げ、続けざまにもう一度餌叉は毛鈎で水面を叩いて揚げようとするとき、鱒が水上に跳ね上がって飛びつく"と紹介しました。
古いテンカラは、このように、毛バリをちょんちょんと、蝶が水面に触れるように操作して誘うものだったようです。山梨県の黒森毛バリも、日本の毛バリ釣りのルーツのひとつですが、やはり竿は前後させず上下させるのが基本です。
 
 当時、秋田県周辺では乾燥した葭(ヨシ)にウルシを塗って仕上げた軽い葭竿を使っていたそうです。竹竿か、この葭竿。葛藤(カットウ)または麻を柿シブで仕上げた道イト。短くて重い馬糸と、ワラビの綿毛などあり合わせの材料で使った毛バリ。このような道具立てで、アワセ切れを気にしながらの釣りでは、現在のようにラインをヒュンヒュンと自由に飛ばすことは難しかったでしょう。

 西洋のフライのように、毛バリの精巧さで釣るのではなく、あり合わせの材料で巻いた毛バリを本物の蝶のように見せるワザ。現在でも日本の毛バリ釣りはその動きで誘います。羽虫を装ってちょんちょんと操作する、この独特の釣りに、東北の釣人は蝶のイメージを見たのではないでしょうか。

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