アユは秋に産卵する。孵化した稚魚は海で越冬し、春になると川を溯って河口から中流域まで移動していく。段々と場所を変えながら川の中を歩んで遡上することから、歩む(古語ではアユル)がアユの名前の由来となったとか。ほかに、木の実などが熟して落ちることをアエルということから、秋に落ちる習性が語源ではないかとか、美味しいご馳走なので”饗ゆる”から”あゆ”になったという説もある。
ではなぜ「鮎」は魚偏に占という字なのか。
アユは海から遠い地における貴重な蛋白資源なので、古来からさまざまな漁法が工夫されてきた。鵜飼漁などは古事記の昔から続く漁法であるらしい。竿を使う釣りも、現代でこそオトリを使った友釣りが主流だが、鮎は瀬では縄張りを持ち、好きな苔のある場所を確保する。しかし、いい場所から溢れて瀞場に住む鮎たちに苔のついた石はない。このような場所では虫を食べているので蚊バリで釣ることができる。これが蚊針流しとドブ釣り。チンチン釣り。さらに、素掛け・玉ジャクリ(チョン掛け)、コロガシ・ピンピン・ルアー釣りから木挽き釣り、アンマ釣りと枚挙にいとまない。
それだけ身近で、しかも貴重な魚だったのだ。釣りの基本はエサ釣りだから、アユもエサで釣れないことはない。しかし成長したアユはもっぱらコケだけを食べるので、エサ釣りでは喰いがわるい上、自然条件にも左右されやすく、釣果がとても予測しにくいという。
そこで、釣りに行く前に、どの川に行くべきか、釣果はどのくらいかを占ったところから魚+占になったと伝えられる。
神武天皇が大和に侵攻するとき、高倉山で敵に包囲されてしまい、そのときに「酒を入れた瓶子を丹生川に沈めて、もし魚が浮いてきたなら大和を平定できる」という霊夢に従ったところ、本当に酔った鮎が浮んできて無事に大和を治めることができた。という神話も残されている。
神功皇后が朝鮮に渡る前に肥前松浦で、「もし私の希望が叶うなら川の魚は鈎にかかるべし」と神に祈念して、米粒をエサに糸を垂れたところ、鮎が釣れたので皇后は無事に渡海できたともされる。皇后はこのとき「ああ珍しいこと」と呟いた。めずらしがまつらに変化して松浦の地名になったという。
ところが、いくつかの字典を調べたところ、アユはウロコがなくてヌルヌル粘る魚だから、魚偏に「粘」のつくりの「占」をあてたとある。なるほど鮎の音読みはセンではなくネンである。
しかしヌルヌル粘る代表はアユではなくてドジョウやナマズの方だろう。事実、漢字の原産地中国で「鮎」と書いたらナマズのことでニエン (nian3)
と読み、アユは香魚という。鮎の音読みはネンで、鯰もやはりネンである。(鮎の文字をアユに取られてしまったので、こまったナマズが同じ音である鯰の文字を、国字で作ってもらった) アユの別名、年魚の年もニェンだからややこしい。なぜ中国でナマズが魚+占になったのか。それには地震予知の占いが関係している。(と思う)
日本ではナマズを「」と書き表していた。堰にいる魚だからだ。さらに、ナマズには「」という字もある。古と占はよく似ている。筆で書き写せば区別はつきにくい。歴史のどこかで鮎と読み間違ったのが、日中の混乱の原因ではないだろうか。 |
「鮎」の占は独占の占ではないかという説がある。これはぼくが思いついた新説だ。
占うという字は占めるとも読む。場所や物を占いによって選び出し、そこを占領するという意味だ。アユにはコケ石のあるエサ場を独占して、縄張りを侵すほかのアユを追い払う習性がある。昔の人は鋭い観察眼で、この誰でも知っているような習性を見逃さなかった、というのがその根拠。
ところがここで新発見!魚偏に、やはり占いをあらわす「ト」を足した「」もアユと読むことが分かった。この文字が存在すること自体、「鮎」が占いからきたことを証明している。アユは占魚と書かれることもあった。やはりネバネバなんかではなく、占いに使われたことが由来なのである。
(筆者註:アユのほかの呼び名として、細鱗魚・銀口魚などもあります)
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