易学と禅と、アドラー心理学が「輪廻転生」において一致した考えを示す


死の瞬間。肉体はまだそこに存在しているのに、生命体ではなくなっている。
物理的には死んだとしても、こころの中ではいつまでも不滅なので、生者は死者への思いを断ち切ることができない。脳に刻まれた生前の姿は、夢に現れることも、幽霊として見えることもある。
このことから、生命は肉体と魂のふたつから構成されている、とする二元論が生まれた。これは狩猟民族の発想でもある。獲物の命を奪う心の痛みから逃れやすいからだ。動物をこちらの都合で殺しておきながら、魂を神の国に帰してやったという、自分本位の理屈すら許される。
二元論はまた、肉体が意志とは別に自律コントロールされていることからも発生した。自分の意志で動かす手足も自分だが、とっさのときの反射神経も自分の中にある。性的に興奮すると肉体の一部は当人の制御にもかかわらず反応してしまう。性がタブーだった時代、肉体は本人と違う意志を持った存在である、という理屈はとても便利だったに違いない。

逆に、人間は一体であってその存在は分割できないとする概念は、微積分の基本定理を発見し、易を二進法で解明しようとした、ライプニッツと共通している。

「精神的存在としての単子は不可分であり、独立完全ゆえに外部からの影響を受けること がない。人間は有限の実体であって、それぞれの異なった視点から世界を反映する。したがって世界には秩序をはずれたもの、不完全なものはありえない」


この考えは禅の教えにも通じる。同じ概念が時代を超えて繰り返し出現するのだ。
人類はひとつで世界の一部であるという概念は、人がほかの生物とルーツを同じにしていることから考えると、突飛なものではない。地球上の500万種とも5000万種*ともいわれる生物はすべて同じ材料でできたDNAをもっている。その材料と約束事は同じで設計が違うだけにすぎない。脊椎動物に限れば、肉体の組成や内蔵の構造、脳の仕組みまで共通である。 

*註:あまりに巾が広いので気になって調べてみた。1970年頃までの資料には150万種とあり、その後250万種にまで増え、次に500万種になっている。最近のNHKの放送では1000万種と3000万種の両方があった。このうち30〜40%を昆虫が占めるらしい。5000万種は未発見の微生物まで含んだ数字のようだ。ちなみに植物は30万種。

生命を構成する物質の連鎖をイメージすると、さらに一体感が深まってくる。
木の実とリスは共存している。花とミツバチも共に助け合って生きている。はじめに植物があって、それをベースに動物が発生した。植物なしで動物は生きていけないし、動物なしに繁殖できない植物も多い。

陸上と海のすべての動植物の総重量は約1兆トン
すべての海で一年間に生産される植物の総量は920億トンである。世界中の全陸地での植物生産量は2,720億トンなので、単純計算で1/4が海で生産されていることになる。しかし、海の面積は陸地の約4倍もあるので、実際の海の生産量は遙かに少なくなる。
面積は広いが、浅海だけでしか光合成ができないからである。植物の生産は二酸化炭素と、日光という原料物質の量に支配されている。水が澄んでいれば太陽光線は水底深くまで届き、植物プランクトンに繁殖のチャンスが与えられる。ところが水が透明なのは栄養が不足しているからだ。栄養がたっぷりとあると太陽光線は遮られてしまうから、光合成できる深度範囲はごく限られてしまい、生産量が増えるのは難しい。

地球上の全動物の体積は、藻や海草まで含んだ全植物の1/10以下に過ぎない。動物のほとんどは海に棲んでいる。海棲動物の中で一番多いのは南極のオキアミで推定10億トンとされている。陸上動物は海棲動物のたった1/250しかいない。動物密度の非常に高いセレンゲティ国立公園でさえ、植物の絶対量200トン/Kuに対して、全動物量は20トン/Kuと1/10である。

約2万5千年前、クロマニヨン人のころの地球の人口は300万人程度だった。
平均体重を50Kgとして総重量は15万トンである。100年前は16億5千万人だったから8,250万トンになる計算だ。現在の総人口は60億人、約3億トンになる。ほかの生物の命を寄せ集めて肉体をつくってきた人類は、全陸上動物の質量の40%を占めるまでになった。

 自然の中に身を置けば輪廻を目にできる。日の当たる場所よりも日陰のほうが生命の息吹が濃密で、蠢く虫や隠花植物は妖しく大いなる気配を感じさせる。
森の土壌は、分解途中の植物と昆虫の死骸で混沌としており、植物と動物と菌類どころか無機物と有機物の境目でさえ曖昧だ。死んだ個体は朽ちて連鎖の輪に組み込まれ、別の生命の一部として再び登場する。豊かな土壌には1グラムあたり40億個もの微生物が棲んでいて、重量の50〜90%が有機物で構成されている。セルロースを中心とした炭水化物は1/3も含まれている。この豊かな腐敗の中から芽生える新しい生命の種類の多さからも、生命が一体であることに気づかされるはずだ。カブトムシの卵は最初2〜3ミリほどの大きさしかないが、土中にいるだけでまるまると親指ほどの大きさにまで育ってしまう。
清潔に見える人間の皮膚でさえ、多い場所では、平方センチメートルあたり150万個もの細菌が住み着いている。体内でも、腸を中心に、数百種以上の細菌が繁殖している。そもそも人体の細胞内にある小器官オルガスラ自体が外部から取り込まれたものだ。

 生物はある臨界点以下の個体数になると、もはや複製をつくることができずに死に絶えてしまう。ならば、再生可能な数を持った群だけが、完全な生命体ということになる。
こうして集団・団塊を一単位として考えると、たとえば一羽の雀は完全な雀ではなくなり、群としての生命のひとつの細胞に過ぎなくなる。一個の死は、名もなき雀としては電池切れの状態だが、それを群の構成要素としての雀と考えれば、生存中になんらかの役割を果たし終え、「雀」全体としての生命の維持に貢献したことになる。死んだ雀の形は、DNAだけが子孫にリレーされたあと、分解されて連鎖のための材料となる。

今、ここにある紙はあるときは種の姿であり、またあるときは木でもあった。いずれ炎になり、灰になり土になり、また水と太陽の力で植物に生まれ変わる。すべては移り変わりの途中にある仮の姿。すべては空・仮・中の三諦円融の世界にある。

現代でこそ常識となっている連鎖の仕組みだが、頭で理解するのと体得することの間には大きな隔たりがある。
個人の生き方ばかりに気を取られていたのが、生命連鎖全体の一分子としての自分であること。人生は、過去30億年にわたって存在した全生命の一瞬の姿であることへの気づき。つまりそれは、自分の内面という極私的ミクロ哲学から、全生命系を俯瞰したマクロの視点への転換である。地面の上の視線から神の目への位置へ。これは仏教でいえば大悟にも相当する。机上の思弁だけで得られるものではないかもしれない。顕在意識が持つ点の情報に無意識層が持つ情報が結びつき、ある瞬間に突然、別の意味を持った情報に展開される。このような新しい価値を持った概念への劇的な変化が「悟り」と呼ばれるものだ。

ブッダ、推定I.Q185とされる天才ライプニッツ、アドラー。およそ時代を先取りする才能を発揮した人間たちは、優れた直感力と洞察力を持っていた。
有能なセラピストは、ひとことふたこと交わしただけで、その人の抱える問題がわかるという。問題をかかえおどおどした子供たちも、熟練したセラピストの前にでると、数分のうちに生気を取りもどす。支配の関係でなく彼らの仲間として接するからだ。この人を支配しないということがアドラー心理学の優れた特徴である。彼らは他人を叱りも誉めもしない。叱咤は上位の者が下位の者にあたえる罰であり、賞賛は褒美である。どちらも縦の関係を確認し、支配をつくりだすための道具でしかない。

 


いやあ!これが知りたかったんだよ。TOPに戻る