亡くなった娘が、お墓に入ることを知らせに来た

 2013年12月6日、午後4時頃、最愛の娘が亡くなった。金曜日だ。
遺体とともに一夜を過ごして、翌日の土曜日がお通夜。日曜日がお葬式で、その夜にはお骨になった。
 金曜日の朝、いつものように出勤した私は、月曜日には遺族になっていたわけだ。

 深い悲しみの中、新年を迎えた。 ほんの少しの刺激で声をあげて泣きそうになる中、私を支えたのは、生命を構成する炭素も水も、地球ができたときにはまだなくて、隕石によって宇宙からもたらされたという説だった。 そうか、娘の体は宇宙からやってきて、それがまた無機物となって生命連鎖の輪に組み込まれたわけだ。

 もちろんこれは理屈付けであって、娘を亡くした悲しみがなくなることはないけれど。

 現在、娘は博多駅近くのお寺で平穏な眠りについている。法名は 虚室妙清信女である。「虚室」とは思い込みやわだかまりのない心という意味だそうだ。

 私も、妻も、もし娘になにかあれば、必ず感知できると信じていた。
ふたりとも、誰から電話がかかってくるか予知できるくらいの感度を持っているからである。 しかしその死は突然であり、超心理学的な知らせは何もなかった。これについては、その瞬間の彼女の心が我々に向いていなかったと確信している。 事実、そんな余裕のある死ではなかったのだ。

 振り返ること2014年1月16日の夜。亡くなって40日目のことである。
寝入ったばかりの頃、娘が居間のドアを開けて入ってきた。自分の部屋からはいつもこのドアを通って居間に出てきていたのだ。見覚えのある黒地に白い水玉のパジャマ姿。寝起きっぽい印象。そのとき、私の頭の中で、娘が死んでいることは理解できていた。自分の死を悲しんでいる様子はない。(このことが一番の救いになった)

 「あ、お父さん」
 「なおみ!」

 ドアの近くの床には私がいつも使っている、ナイロン製のカメラバッグが置いてある。フタは移動時以外開けっぱなしで、開口部はマナイタくらいの面積がある。
娘は、居間に入ってくるなり 「この中に入るから」と言った。
中には手帳や携帯などが入っているのでダメダメとバッグを抱えたところ、
「まあまあまあ」と、いつもの口調で言いながら、つよい意思を感じさせる動作でバッグの中に両足を入れて、そのまま座り込んだところで姿が消えて、私も我に返った。

 左腕には娘のお尻と腰の感触が、右腕にはひざと両手の硬い感触が残っている。夢とはぜんぜん違うリアリティがあるものの、意味の通らない不思議な夢(または幻覚)だった。 たぶん全部で10秒くらい。妻にもすぐ「いま、なおみが帰ってきた」と伝えた。

 翌々18日の土曜日が四十九日の法要だった。
お寺での供養が済んだところで納骨となった。そうか四十九日のタイミングでお墓に入るのか。たぶん知らされていたとは思うけど、聞き流していたのだろう、私はこういう流れだとは理解してなかった。

 お堂を出て境内にある墓地まで歩いていった。

 私の知っているお墓は、平らな地面の上に石かコンクリートで墓石の台座をつくり、その中にお骨を収める方式だ。「高」という文字の下の「口」が納骨スペースになっている形状。それしか知らない。
ところが、こちらのお墓は違っていて、納骨スペースは地下に設けられている。 納骨スペースへの入口は小さくて四角い。つまり地面に四角い穴が開いた状態。人が一人立てるほどの大きさしかない。

 読経の声の中、娘のお骨はその小さな穴を通って地下に安置され、御影石の板でフタがされた。

 家に帰ってからはっと気がついた。

 そうか。ぼくの夢に現われたのは、四十九日に地下に入ることを知らせるためだったのか。悲しんでばかりいる私に、「お父さん、私はあさって小さな穴を通って納骨室に入るんだよ」とお別れを言いに来たんだ。
もしかしたら、霊の世界は存在するのかも知れない。私の無意識が創り出した夢にしては、知らなかった情報が含まれている。

 仏教の世界感では、亡くなった人の魂は四十九日まではこの世にとどまっているという。それは残された者たちにとって、愛する人を諦めるのに必要な日にちかもしれない。でもそれ以外に、なにか死者側の理由があるような気もする。仏教は経験則的にそれを反映しているのではないか。

 私は夜、寝室で一人で寝ている。トイレが近くて、起きるたびに私に踏まれるので奥さんは別のところで寝ているのだ。そう、私が起きるたびにビクッとして脚を縮めていたもの。小さなマンションなので来客が泊まれるスペースは私の隣しかない。

 娘の死後、夜中に寝息が聞こえる怪現象が起きた。私が寝ているすぐ隣、1mか1.5mくらいの感じである。小さく安らかなスースーという女性的な寝息だ。
現実の音だとしか感じられないので、起きて明かりをつけてみたが、もちろん誰もいない。
決して自分の息ではない。となりの部屋の妻の寝息でもないし、マンションの階下から聞こえたのでもない。寝ぼけてもいない。身を起こして息をとめ、耳をこらして、五感をきちんと働かせて、確実に現実の音として聞いたのである。

 もちろん寝息の発生源はわからない。それが2回あった。気味が悪いとか怖いといった感じはない。むしろ安らぐくらい。

 タイミング的にも娘の死と関連づけたくなる出来事だ。
そして、また、ハッと気がついた。そうか。だから娘はあのときパジャマ姿で私の目の前に現われたのか。

 間違いない。死後の世界は安らかな眠りの世界である。

 

娘からのメッセージ

 娘のお骨は、嫁ぎ先のご先祖さまが眠るお墓に収められた。お義父さんや義母さんはまだご存命だから、知らない人たちの中に一人で入ったことになる。
そこで私は線香とお花、ペットボトルのお茶を数本と、年寄りの好きそうなお菓子をたくさん持って墓参りに行った。
「1月17日に仲間に入れていただいたなおみの父でございます。娘は無駄遣いもせず控えめで頑張り屋のいい子です。どうぞ仲良くしてあげてください」

 なにしろ、相手は全員死者であり、しかも眠っているのだから、一度くらいでは届かないに違いない。それを毎週末 繰り替えして迎えた2月20日。死後76日のことだ。

 夕方、自宅の遺影の前にお茶とご飯を供えて食卓につき、遺影を振り返った瞬間。とつぜん遺影から「お父さん、ありがとう」という声が直接、私の頭の中に飛び込んできた。
もちろん、食事のお供えのことではない。墓参りのことだ。

 現実の声やソラ耳ではない。稲妻のように鮮烈で強力なメッセージである。私はこれまでにいくつもの神秘体験や予知を経験してきた。だからわかる。予知やお告げは当たる当たらないの占いの世界ではない。判る判らないの世界であり、判った以上は必ず真実である。

 娘からの奇跡的なメッセージに涙がとめどなくあふれてきた。
 ご先祖さまに挨拶に行ったことが娘の役に立ったのだ。よかった。

 思い込みだとか、迷信だとかの理屈づけなんかクソくらえ! 娘の思念はまだ生きている。生前の、なつかしい声のトーンはなかったが、たぶん無に返る前に精いっぱいのメッセージを送ってくれたのだ。

 死後の意識の存在を信じられない人なら、私の深層心理が作りだした幻聴だというだろう。でもそれは門外漢が机の上で作り出した理屈だ。そういう類の、自分の内部で起こる現象とは明らかに異なる感覚なのだ。

 幻聴・幻覚とはどのようなものか、中国の高山で遭難して一人で帰ってきた松田宏也氏さんの「ミニヤコンガ奇跡の生還」や、ヨットレース中に 転覆して漂流した佐野三治さんの「たった一人の生還」に詳しい。
どちらも極限まで疲労した肉体と精神から生まれている。すべての音も映像も脳内現象だから、 このような、脳の誤作動から発生することは理解しやすい。 医学的にはレビー小体に異常があると幻覚が多発するという。しかしそれは原因の一部であって全てではない。

 もうひとつ、たとえばテレパシーのように、脳に外部から情報が入ってきて発生する幻覚がある。
私の経験の真実は、 別の世界に行った意識が、現世の私の意識に働きかけてきたのである。

私の脳ミソの無意識の領域には、死後の生存を信じる確固たる気持ちがあって、死者は生きている者にメッセージを送ることが可能である。 さらに、娘はお参りしてくれた私に感謝の気持ちを持っている。お礼を言いたい、言えるという、当の本人も驚くような深層の気持ちがあること。

 このような考え方と、

人は死ぬときにある一瞬を境にして意識が完全に消滅するのではない。医学的には生存の証拠がなくなっても、意識が消失するまでには時間の幅がある。

 どちらの考え方も同じくらい突飛だし、どちらであっても不思議はないと思う。

 立花隆氏は「臨死体験」の中で以下のように述べている。(一部抜粋)

私はサイエンス関係の取材が多いので特によくわかるのだが、科学はまだ知らないことだらけなのである。
脳科学を例にとれば、部分的にはいろいろ面白いことがわかりつつあるが、それはいずれも、視覚系なら視覚系といったサブシステムを構成する、さらにその下位のシステムの部分的な構成原理が部分的にわかりかけてきた という程度にすぎない。

人間の意識はどう構成されているかといった、脳の高次機能のメカニズムについては、解明の手がかりすらない。
人間存在の中核にあるのは、自己という意識の主体である。それは同時に思推の主体であり、情動の主体でもある。 そのようなものの総合体としての自己意識の座が脳のどこにあるのか。その意識はどのように作り出されるのか。 そういったことはまるでわかっていない。

視覚系が集めた情報を受け取る認識主体がどこかにあるはずである。
ところが肝心かなめの、意志的決断をくだす意志の座がどこにあるのか、いくら研究しても全然わからないのである。

脳の内部にあるはずの、自己意識の中枢が見えてこない。 あまりのわからなさに、ついに最近では、意識は本質的な実体として存在するのではなく、脳のメカニカルな活動にともなって付随的に発生する 幻のようなものにすぎないという見解すら出てきている。

個人的な存在の根源にある主体的な意識は、実体がない幻影にすぎない。そこで脳機能の世界的研究者であるペンフィールドも晩年には一元論を捨てて、二元論の立場から、脳は意識の中枢ではないと考えるにいたった。

 二元論とは、意識と肉体は不可分な存在ではなくて、別々の存在だとする考え方である。 つまり、人間は魂と肉体からできているという考え方である。
脳科学のトップランナーがこのような原初的で体験的な考え方を持つにいたったのは 意識の主体がどこにあるかの決め手がないからである。

 

 肉体を失った者たちが現世の人間と同じようにしゃべったり、飲んだり喰ったりできるわけではない。現世とはちがう階層に意識の痕跡が残るか、または記憶されるのだ。それは通常の意識レベルでアクセスできるだけの実体を持たない。

 娘からのメッセージは、 易学を勉強して、多少なりと、目に見えない世界からの意思を受け入れることができる私に、神様がくれたプレゼントだと思う。


 

  わかったこと

 遺影とは物理的には薄い紙の上に置かれたインクの模様にすぎない。だから理屈のうえでは、写真に霊魂がやどるわけはない。これは位牌も同じことだ。
ただ、そのインクの模様が故人の生前の姿であるだけに、 見る側の意識が集約されて、残された人たちの思念の拠点となる。

 沖縄のユタさんたちの話では、霊魂は普段はお骨とともにあり、仏壇や位牌は帰ってくるときの目印だという。数千人ものユタさんが同じような考えを持っていて、たとえば、体調不良の相談のときに、「あなたの母親方の何代前のお爺さんの供養が足りない」などと答えたとする。 念のためにほかのユタさんに尋ねても共通した内容の答えが出てくるらしい。

 ぼくが師事した宮崎の超能力者杉尾常聖博士も、外国に住む依頼者の家を探すときには、自分の意識を上空に飛ばして、雲の上に出ている教会の塔を目印にすると言っていた。国内のときはそのままの状態で依頼者の自宅の周辺が見える。

 「あんたの家の玄関を出ると向かってななめ左の山の中腹に祠(ほこら)があるじゃろ。そこにはこんな形の葉をした木が生えているじゃろ」と先生は。空中に指先で葉っぱの形を描く。 それらはことごとく的中しているのである。
依頼者は「あー。あそこに古い祠があるある。小さい頃に行ったきりですっかり忘れていました」

 杉尾先生は相談者の顕在意識にもない事を見てきたように言い当てた。 「その祠にお願いすればこんどの事はうまく進むよ。あんたの神様はそこにいるから」

 見えない世界とこの世をつなぐのが霊所なんだ。仏壇だったり、故人の遺物だったり、生者の意識が集中するものが、故人の意識が帰ってくるときの目印になるんだと思う。
 仏像も同じだ。そのもっとも重要な機能は、生きた者たちの意識を一点に集中させることにある。 いつもそこに僧たちの、仏を求める意識が存在することで、仏さまのいる階層との窓口となるのだ。

 たぶんこれは間違ってない。

 でも それが真実かどうか、この世の人間が証明することはできない。
「虫の知らせ」がすべての人に起こることがないように、死者からのメッセージをすべての人が受け取ることはできない。 またすべての死者がメッセージを送れるのではない。
神様の気まぐれの矢が、送り手と受け手の両方に当った場合だけに起こる奇跡なのだ。

 私の中にあった常識の壁がひとつ壊れ、世界の構造の核心に一歩近づいた。 限りない死に支えられた一瞬の生命を粗末にしてはいけない。かといって死を恐れるべきではない。
向こう側には懐かしい人たちの世界がある。


  -- 2016年12月 加筆 ---

 丸3年が過ぎて 私の記憶から鮮烈さが失われてきた。 これは人の老化の観点からも当然のことかも知れない。 忘却は死への適応の一形態だからだ。
だが、このページを読み返すことで当時の感覚が復活し、死への恐怖を取り除いてくれる。

 理屈でいえば、

 死者の霊魂が姿を現すことまでは認めうるとしても、メガネや衣類など心を持たない無機物まで目に見える以上、霊現象とはやはり見る側が作りだしたイメージではないのか。

そんな唯物的な考えをグイと押し返してくれるのがこのページの役目のひとつである。 人間はイマジネティブであり、心の分野においてもクリエイティブである。 記憶でさえも自分に都合よく変容させてしまいがちだ。 捏造の混じった記憶を創らないようにしたい。

 このページをサーバーにUPした当初、こんな出来事を公共の場に晒していいのかという ためらいがあった。

 新曜社の「呼び覚まされる霊性の震災学」に、石巻市のタクシー運転手たちが体験した4つの霊現象がレポートされている。
お客さんを乗せて行先を聞いて、メーターを倒して走り出し、しばらくした所で姿が消えてしまったのでお金を貰えなかった。会社へは自腹で入金したという経験談である。

 彼らの体験は私たちに新しい知見をもたらしてくれた。これも、あまりに不思議な出来事ゆえに運転手さんが記録してくれたからである。
 亡くなった子供の姿を、親や兄弟が見たのなら、深層意識が現実世界に投影された可能性もある。無意識が創り出した心の中の映像である。
しかし、身内を亡くしてもいないタクシーの運転手に、見ず知らずの他人の霊魂を見る理由はない。素直に客観的事実として考えた方がいいと思う。

 私は 現在でも月に2回以上のペースでお墓に行っている。 1ミリでもいいから娘の力になれれば と思うからだ。 あれ以降特別な出来事は起こらない。意識だけの世界で安定したのだろう。 便りがないのはいい便りだと言えるかもしれない。

 いまはただこの2回の奇跡をプレゼントしてくれた娘に感謝するのみである。


 


  -- 2018年1月 加筆 ---

 4年が経って突然おそってくる悲しみに涙を流す回数は減ってきた。

 この正月初めに妻の母が他界した。 葬儀の合間の雑談の中、妻の兄が、亡くなった母の母、つまりお婆さんが亡くなったときの事を話してくれた。
「マサコさんが亡くなった夜、オレは大阪の自宅で寝ていて、部屋の隅にマサコさんが姿を表したのを見た」

 葬儀が終わって福岡に帰ってくる車中で妻が、
「お婆さんが亡くなったとき、兄さんの奥さんは線香の匂いを感じたそうよ。じつはお婆さんは私にも姿を見せたの。だから電話が鳴った瞬間に死んだ知らせだとわかったわ」

 さらに続ける。
「あなたは娘が亡くなったとき、寝息が聞こえたと言ったでしょ。私も3夜続けて寝息を聞いたの。すぐ耳元で静かな寝息がしたから、あぁこれで大丈夫。安らかに寝ていることを知って悲しみがずいぶんと癒されたわ」

 みんな多くを語らないだけで、霊的な現象は頻繁に発生しているのかも知れない。日本では1日平均で3,500人以上が亡くなっている。 我々には見えない空間に超心理的な情報が飛び交っているのだ。

 

 

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