中国まで伝わっていたインド密教は空海(774〜835)によって日本に伝えられた。
空海と同時代には、修験道の役君小角が鬼神と呪術を自在に操っていた。小角が祀った孔雀明王はインドで生まれた密教の守護神である。式神使いで名高い安倍晴明も小角から少しだけ後の世代だから、空海が日本で初めて密教を広めたわけではない。
空海が伝えたのは、長安の高僧 恵果和尚が持っていた金剛界・胎蔵界という、当時としては最新の概念である。それが、それまで雑密と呼ばれていた断片的密教を体系的に大きく統一したのである。
空海が旅の僧侶から伝授されたという、求聞持聡明法もすでに日本に伝わっていた修行法である。
現在もっとも有名な修行のひとつだが、そのあまりの過酷さにアラヤ識から「魔」のようなものが出てきて、深刻なトラブルになることがあるという。胎児の発達過程に原始からのヒトの進化が記録されているように、脳にも過去の原始宗教や呪術・妖術の時代の記憶が残されているのかもしれない。
求聞持聡明法は、虚空蔵菩薩求聞持法とも能満諸願虚空蔵菩薩最勝心陀羅尼とも呼ばれる荒行で、「求聞持軌」には、この修行を初心者がおこなうと障碍があると明記されている。もともと密教の修行は厳しいものばかりで、いきなり高度な修行をさせて貰えるわけがない。実際にはトラブルの発生を防ぐため、各段階ごとに修了書を得ないと次のステップへ進めない仕組みになっている。
この修行には、始める日時や場所に制限があって、喰う寝る排泄するなど生命維持に最低限必要な時間以外は、ひたすら印を組んだまま呪文を唱え続けることが要求される。
独房には身の周りの物一切を持ち込むことができない。穀物だけを食べて、特殊な印を組んだままマントラを一日に一万回、100日間で100万回(または一日に2万回、50日間で一万回)を唱えるという大修行である。
同じリズムの深い呼吸を何度も繰り返せば血液はアルカリ性になる。栄養不足からくる低血糖や、睡眠不足も手伝って意識は朦朧としてくるに違いない。血液中の炭酸ガスが不足して過換気症にでもなれば、幻聴や幻覚も当然のことだ。「魔」が出てきたようにも思えることだろう。 |
この修行を無事に終えると、一度目にした光景はカメラのように細部まで鮮明に記憶できるようになる、無限の記憶力が身につき、聞いた言葉は一言一句
間違いなく再生できるという。しかし、マントラを一回唱えるのに5秒かかるとして1分間に12回、1万回を唱えきるには14時間もかかる計算である。決して生半可な気持ちで取り組めるものではない。
ノウボウ アキャシイ ギラバヤ
オンマリキャ マリボリソワカ
ノウボウ アキャシイ ギラバヤ オンマリキャ マリボリソワカ
ノウボウ アキャシイ ギラバヤ オンマリキャ マリボリソワカ
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これには、
オン バザラ アラタンノウ オン タラク ソワカという説もあるし、
ナモ アキャシャ ラバ オン アミリキャ アリボ ソワカという説もある。また、
ナウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリ キャマリボリ ソワカ とも、
オン バサララタヤ ウンナム アカーシャ ラバ オン アミリキャ アリボ ソワカとも云われる。
手もとの、やたら漢字が多くて信頼のおけそうな資料には、左にタテに書いたように記載されている。
マントラだったらなんでもいい、というわけもないだろうから、聞きなしの音で伝わっていく途中で変化したのだろう。行の毎日の最初の一回だけは上記のうちの長い方のマントラを唱えるらしいし、どうも複数のメソッドが混在しているようだ。
いかにも梵語らしい響きのこのマントラの、意味に思いを馳せてはならないとされている。禁止の理由はいろいろあるが、言葉の意味に囚われるよりも、頭の中を空っぽにしたまま一日をすごすことが重要なのだろう。もとは古代サンスクリットでも、音だけのマントラとなったからには、念仏以上の意味は持たないはずだからである。
四国の室戸岬 青厳渡寺の近くに、空海が求聞持法を修行したことで有名な洞窟がある。御蔵洞と呼ばれる花崗岩窟で数人が立って歩けるほどの大きさである。洞窟には黄泉の国への入り口というイメージがあって、特別な行をおこなうという動機づけがいいのはもちろんだが、一番のポイントは感覚遮断効果にある。
完全に閉鎖された空間では、思考の場である大脳皮質はまともなフェイズではなくなり、正常な機能は失われてしまう。人は自然の中で生まれ、常に自然そのままと人工物が混在した外界に五感を通して関わっている。人間の脳は五感(聴覚・視覚・嗅覚・味覚・触覚)からの刺激が維持されることで、はじめて目覚めた状態でいられるのだ。
感覚刺激が閉ざされると、知覚が乱れ、思考力が損なわれ、人格は変化して個人としてのアイデンティティそのものが喪失する。こんなことを100日も続ければ脳みそは完全なリセット状態になるに違いない。
求聞持法が三百日行でも千日行でもないのは、それだけ過酷な修行ということである。
いったん記憶を消して、意識を最初から構築しなおせば、再秩序化による相当な効果が期待できそうにも思えるのだが、この大変な修行を5回も6回も行った人物がいるという話を聞く。
空海も御蔵洞で明けの明星が体内に飛び込んでくる経験をしたが、その前に、太龍寺でも求聞持法の修行を行っている。この行法を伝えた旅の老僧にも効果はなかったと伝えられている。どうも一回で効果の上がる修行ではないようだ。
方法はある程度 文章化されているが、心象風景とはいえあまりに象徴的に述べられていて、読み方次第でどのようにもとれる。テキストのあちらこちらに隠し字
(三界→三田のようにトラップを設ける) があって理解を妨げる。さらには、行の最終日が日蝕か月蝕にあたるようにしないと効果が顕れないという、実行不可能に近い条件もあって、まるで、あらかじめ失敗した場合のエクスキューズが仕込まれているようにも思える。
たぶん、上には上の修行方法があるのだろう。
しかし脳みそをフォーマットしなおしたからといって、情報処理のスピードが上がるとは思えない。これは情報の質や量といったソフトの問題ではなく、脳の基本性能というCPUの問題だからである。
求聞持聡明法はデフラグに相当する修行ではないだろうか。
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