易占には霊感商法のようなインチキくさいイメージがつきまとう。
判りもしないことを、判ったかのように喋ってお金を得る口先三寸の商売だ。実際に、占いは戦後の一時期、テキヤのタンカバイの商売道具でもあった。占師ではなく香具師である。
世の中にはコケ脅かしの服装とヘンな名前で、虎の威を借る占師がたくさんいるので、占いと距離を置くのは正しい対処方法である。自分で招いた不幸を、すぐにありもしない霊魂に結びつける風潮もよくない。
しかし、だからといって占いすべてを排斥するのは誤りである。勉強もしないで正義漢ぶるのは楽しいけど、失うものも大きい。できれば、本物の易学に、先入観を排して挑戦してみて欲しい。
北海道の炭坑が斜陽になりかかったころ、坑夫たちの転職の相談に応じていた易者がいた。
彼は30年にもおよぶ易者生活の間ただひとつ
天雷旡妄の卦だけしか使えなかったという。形だけの易をたて、どんな卦がでようが天雷旡妄(てんらいむぼう)と言い張った。
旡妄は無望をあらわす。「期待や下心をすてて天命のまま生きなさい」という卦である。
「困難な問題にぶつかっても動揺しないで受け入れること。策を弄すると災いが降りかかる。誠意と無心で進んでこそよい結果が得られる」といった意味を持つ。
この卦ひとつに人の道の真実があるようだ。しかし逆にいえば、だれにでも当てはまる程度のご託宣でもある。迷っている人の弱点をついたサギにも近い。なによりも具体的な方策を授けていないのは欠点である。 |
大道芸的なレベルでは、おみくじほどの意義しか持たない易の世界だが、アプローチの方法さえ間違わなければ奇跡的な的中が得られる。これはたくさん出てくる卦の言葉を都合よく解釈するとか、個人の受け取りかた次第といった問題ではない。たしかに、64卦の中にはとりかた次第で逆の意味になる卦がある。たとえば病人を占って
離為火を得たとする。離為火には「つく/離れる」の意味があるので、本人を見なくても生命が危うい状態にあるとわかる。ところがこの卦には「継続して吉」と「生命離脱」の相反するふたつの意味が含まれている。果たして彼は回復できるのか。これをひとつの卦だけで的中させることはできない。略筮の限界である。
だが、本筮易はそれを可能にする。これは実際にふれてみれば、その卦面の流れを見るだけですぐに理解できることだ。易は、すべての出来事の根底を流れるなにか、人類は到達できない「意志」の一端に触れることができる最後の方法かもしれない。それはこの世界と人生の関係の、偶然と必然を知りつくした存在である。
見えないところで関係していながらも、その人が直接知ることができる範囲は限られている。捜し合っている二人も路地が一本違えば出逢うことがない。人は面積と時間をもつ大きな流れの中のただの一点であり、その時空間の流れの河を、上空から眺めることは通常の方法では不可能だ。いま自分は流れのどこにいるのか。この先に待ち受けているのは滝なのか湖なのか。このまま手を打たずにいたら未来はどうなるのか。易は、流れてきた水流がまたいくつかに分かれようとしている中で、将来がどうなるかを見据え、右か左か迷いを決するために立てられる。
四書五経のひとつ、易経は本来 修養の目的で編纂されたものだった。賢人のための処世術を説いた書である。こんな状況でこんな行動をとるとこういう結果をまねくぞ、その場のなり行きで軽率なことをしでかすと報いがくるぞ、といった因果律の世界を説明するものだ。ところが、これをいったん事の本質を知る、事態の表層ではなくて裏をみるという面でとらえると一変して因果律からかけ離れたものとなる。
易占は、お祈りではないから、占ってみたからといって心の中の希望を達成できるわけではない。神仏に願いの成就を丸投げするのではなく、願いがかなうためにはどの道を行けばいいのかを問うためのものだ。
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古来より多くの人々がこの不思議な世界の解明に挑戦してきた。中国の古哲からニーダムの二元論、ライプニッツのモナド論(ライプニッツは易経から二進法発見のヒントを得た)での解釈はおろか、ユングの共時性理論にまで発展するが、いまだに満足のいく説明は得られていない。
現在わかっているのは「見えない世界とこの世界を関連づける優れた方法」ということだけだ。もし、科学的な理論とか物理学の常識という、強固なバリヤを突破しなければ説明できないシステムならば、理論の解明は専門家に任せておいて、私たちはそのシステムを有意義に使いこなしたいと思う。
うまく働いている道具を好奇心に任せて分解してしまい、修復不可能にしたらそれはとても愚かなことだ。易はまだブラックボックスなのである。もしその本質が民族の無意識層や、その集合無意識が創りだした情報塊にあるなら、これは充分に考えられることだ。
同じひとつの出来ごとも、見る者の独自の視点からしか理解されない。その理解は、その人が理解できるレベルであり、それ以上ではない。認知バイアスのレベルは個人個人で違うから、易を理解できる人間もできない人間もいて当然である。ただ、一歩踏み込まないことで得られなかった情報をもったいないと思うのみである。
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