宮崎県の最南部にある幸島は九州本島から約150m、全周3.5kmほどの小島である。
海は砂地で浅く、大潮のときには九州側の石波海岸から歩いて渡れることもあるという。
ここに天然記念物のニホンザルの群がいて、地元では和子(わこ)さまと呼ばれているらしい。源平合戦の後にこの島に放たれた、ひとつがいのサルの子孫だと伝えられており、体が少し小振りなのが特徴である。
幸島のサルの群で、エサの泥つき芋を洗って食べる習慣が始まったのは1953年の初夏のことだ。発見したのは地元の小学校の先生で三戸サツエさんである。最初は、子猿がイモを水辺で転がして遊んでいるのかと思ったという。
当時のサル人口は20頭ほどだった。大正末期にはすでに約90頭が確認されているから、猿口は減って、エサを争うほど過密な状況ではなかったと思われる。にもかかわらず、海に落ちてほかのサルに見向きもされない芋を食べるメスザルが現れた。
それまでニホンザル(マカク類)は海に入らないものとされていた。わざわざ海に入らなくてもエサは手に入るが、海に落ちた芋は泥が洗い流されて食べやすく、ミネラル分まで摂取できる。塩味が美味しく感じられたのかも知れない。
イモと名付けられた1歳半のメスが創造したこの文化は、子から兄弟へと広がっていき、6年たつと島のほとんどのサルたちが芋を洗って食べるようになった。同じ母親から生まれたサルの系統に受け継がれたというから、環境よりも遺伝的な気質の影響がつよいのかもしれない。若ザルたちはすぐになじんだが、保守的な老ザルは芋洗いを覚えることなく寿命が尽きてしまった。
このイモ洗い行動はサルによる文化の創造として世界的に有名になった。
ところが、幸島独自の文化と思われていたイモ洗いは1962年に大分県の高崎山自然動物園でも発生し、そのあまりの偶然に驚いた人間たちのあいだに、約20年後「百匹目のサル」のブームを巻き起こす。始まりは、1981年工作舎発行のライアル・ワトソン著「生命潮流」である。
これは、ある文化を持つ個体の数が一定数(臨界点・ここでは100匹。現在の幸島のサル人口は90数匹から110匹程度)を超えると、その文化は繋がりのない遠くの地でも自然発生するというものだ。
新鮮な概念ではあるが、これは偶発だと考えたほうが無理がない。
イモは芋洗いのあと、砂地に撒かれたエサの小麦を海に投げ入れ、浮いた小麦だけを食べるという第二の発明をなしとげた。1956年には、芋を両手に持っての二足歩行までが観察されている。だが、その文化は高崎山にまで伝わってない。逆にまた、高崎山で発生したキャラメル食いの文化が、よその公園のサル群に伝播したという事実もない。
幸島から大分県の高崎山までは直線距離で200kmほどである。島のサルたちにとって、芋洗いが当たり前のことになった1960年には、水泳の達人オスザル「ジューゴ」が島を旅立っている。もともとニホンザルのオスは、近親交配を避け遺伝子の拡散をはかるためか、4歳前後になると群から出ていく習性がある。かりにほかの群に合流したとしても長くは留まらない。
ジューゴは近くの島で4年間を過ごしたのちに他界したと記録されているので、ジューゴがこの文化を九州本島に伝えた証拠はない。しかし、たしかに付近に島はあるが、どれも一目で分かるほど小さいし、なによりも九州本島よりも遠い。もしほかにも脱出ザルがいたなら、九州本島に渡る道を選ぶだろう。幸島は湾内に浮かぶ、大潮の日なら歩いて渡れるほど近い島なのである。どうもワトソン博士は現場を見ずに書いたようなのだ。
高崎山で芋洗いが発見されたのは、ジューゴの出奔から2年後のことだ。
その間に陸づたいで文化のリレーが行われたかどうかは知るよしもない。ただ、高崎山が開園したのも、幸島で餌付けが開始されたのも同じ1953年である。どちらも戦後の復興が一段落し、サルにエサを与える余裕ができたころのスタートだ。
高崎山の海岸には交通量の多い国道10号線が通っている。サルたちが、泥つきの芋を洗うなんて簡単なことに気がつくのに9年間を費やしただけかも知れない。
なにより3グループ、各群数百匹のサルたちによって、すざましいエサの争奪戦が繰り広げられる。芋を洗って食べる余裕などなかったに違いない。
現在、幸島では、より自然に近い状態で観察するためにエサやりの規模が縮小され、イモ洗いの文化は途絶えてしまった。そのかわり、生魚を捕らえて食べるという驚くべき文化が生まれている。
離島ではこのような独自の文化が生まれやすい。本土ではオスザルがボスになり、その座は競争によって奪い奪われる。これが屋久島になると、ボスに選ばれるのはメスであり、力が弱っても死ぬまでその座を追われることはない。本土と島ザルの違いは競争の少なさにある。
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