易 学 の 概 要 1


 スイスの精神病理学者C.G.ユングが、易から「元型」のヒントを得たことは有名である。
彼が易を治療につかっていたこともよく知られている。日本でもユング派の心理学者には易をたてられる人が少なくない。だが、占いはまだ科学として認知されていない。
  再現性が確立されていないという致命的な弱点があるからだ。アプローチのための方法が多すぎるのも、論理性を乏しくさせる理由となっている。

 占いの種類はきわめて多岐にわたるが、方法が多いということはそれだけ決め手がないということでもある。
それぞれの占法の得意分野と的中率には大きく幅があるが、基本的には陰陽道と五行説がさまざまな東洋占術の骨格となっている。

 紀元前1400年の殷の時代にはすでに、暦法としての干支が使われはじめており、ほぼ同時に、人の運命は誕生日に左右されるという概念も確立した。生年月日という動かしようのないデータから占う以上、霊感とか偶然とかに影響されないのはメリットだ。熟練者なら共通した答えをだせるはず、といった安心感もある。反面、過去や現在がすばらしく的中している場合に、運命はもって生まれたもの、未来は決定されているもの、という考えに支配されやすくなる。そこにいる生身の人間ではなく、推理のための道具にすぎない占いの方を優先してはいけない。「運命」という言葉は、逃れようのない悲しみに出会ったときにだけ使われるべきである。

 もっともポピュラーで、ファンも多い四柱推命は中国から渡来した。
文革の影響もあって、本場中国では一時期壊滅状態となっていた。占いは迷信として禁止されているので、公式には占師という職業自体が存在しえない。が、実際には文化として継承されていて、台湾・香港あたりでは盛んな占いである。
 現在、日本で流通しているだけで300冊以上の書籍があって、目新しい名前のつけられた占いもほとんどがこの四柱推命をベースにしたものだ。一時期流行した動物占いも例に漏れない。
占法としては生年月日を太陰暦に置き換えて、気質や運勢を知る手がかりとする。数学的な統計手法が考え出される随分とむかしから、人々は月と太陽と惑星の運行リズムが、人間の体調や感情を左右することに気がついていたのである。
 四柱推命は、生まれた日が月齢のいつにあたるかと、その日が出生月とどう組み合わさっているかで、人の一生の運のリズムを予測する。甲乙丙丁の十干と子牛寅の十二支による、旧暦の60進法に変換しただけではまだよくわからない。しかし、これから陰陽五行のサインを導きだすと、とたんに生き生きとしたルールがあらわれてきて、人物の気質や貴賤・男女の相性から結婚適性にまで高い的中をしめす。関係がうまくいっている人たちの生年月日も、五行であらわすと驚くべき共通点が発見できる。赤ん坊の誕生日で占うと親の性格にそっくりなことがあるし、子供の生れ日から親がどんな人物か推測できることもある。こうなると遺伝とはいったい何なのかという疑問さえ発生して、神の意志を感じる一瞬でもある。
 太陽暦では見えないことが太陰暦では歴然となる。このことから世の中は見えないルールに支配されているのだと思い知らされる。

 「易」は占い全般をさす代名詞のように扱われることもあるが、ほかとは独立した占法で、周易と五行易に大別される。筮竹を用いるのが特徴だが、この筮竹は亀卜の補助具として発展してきたものだ。易学は時代ごとに進化してきたので、発生時期を特定するのは難しいが、紀元前1000年の周の時代には、だいたいの形ができあがっていたようだ。その後、孔子がその思想に手を加えて以来「易経」と呼ばれるようになったが、一般には「周易」という呼称の通りもよく、使い分けはされていない。

 運命への考え方は、四柱推命と対立したものがある。世の中は有為無常。状況は常に変化するものだとの理解が根底にあり、個人の忍耐や努力を重要視して、人はその行動次第で運命を変えられる、というスタンスに立っている。占いとしては、偶然に得られた筮竹の数に天啓としての意味を見いだすものだ。筮竹から得られた陰陽のデジタルなサインは、易経の言葉に置き換えられ、依頼者の置かれた環境や、これまでの流れといったファクターが加味されて解釈がなされる。

 易と現実との驚くべき整合は、現代ではシンクロニシティという概念でしか説明できていない。「意味のある偶然の一致」と訳されているが、つまりは一種の奇跡である。
得られる言葉は、打つべき手がないときには困難な時期が過ぎ去るまで耐えよ。身に危険があると知ったら、さっさと逃げ出せ、といった実戦的なものだ。
たとえば女性を占って(山水蒙・無知で暗愚な状態をあらわす象)の下から三つ目の変爻を得た場合、その意味は「無学で身持ちが悪く、金持ちの男をみたら誘いをかけるような女である。すべからく道に外れていて、どこに行ってもうまくいかない。騙されないように注意することだ。決して嫁にしてはいけない」と、きわめて具体的である。
 まさに厳しい経験則の世界で3000年もの間、磨き抜かれてきた強さがある。上手になると、どんな事象にも優れて高い的中を示すようになり、問題解決のための実践的な考え方と、行動の指針を与えてくれる。

 「袖すりあうも他生の縁」という諺があるように、東洋では現世と異界との関係が濃密である。目に見える世界ではそれぞれの事象が独立して機能しているようだが、現実の世界と累(かさね)または深層心理の世界、さらに下の階層を流れる大きな意志の世界はリンクしている。世の中は重層構造をしていて、祈祷や占いなど現実からの働きかけによって意志が姿をあらわす、といった特徴的な世界観が存在している。
 これは伝統的なタイプの日本人には受け入れられやすいが、唯物的な西洋人には理解しにくい概念だろう。今でもフランス人あたりの抵抗は大きいようだが、物質文明から精神世界へと向かう時流に、ユングの神秘主義的心理学のヒットも手伝って、易学はこの壁のブレイクスルーを果たした。数理に基本をおいた「変化」がシステマチックに展開されており、怪しげな呪術性に毒されていないことも、西洋に哲学的インパクトを与えた理由である。

 「占い」は古語では「裏合い」または「心合い」と書き表わされていた。表面に見える事柄の裏側をみるという意味である。
 古くから日本には辻占や橋占、夕卜などと呼ばれる占いがあった。路上に邪を払うとされる餅米をまいて結界をつくり、彼は誰どきになってから、この域内に入ってきた人の言葉から吉凶のヒントを得るものだ。
 辻や橋は異界と交わる場所である。よく云われる”逢魔ヶ時”とは、大禍(大凶)に出逢う時という意味で、魔物たちが歩き始める時刻のことである。人の顔が判らないほど暗くなったら、路上で呪文を唱えながら、結界に入ってくる者を待つ。近代まではかなりの大都市でも、夜は暗闇が支配する世界だった。櫨の実からつくられた蝋燭は贅沢品だったし、行灯に用いる菜種油や鯨脂、臭水(草生水:くそうず)と呼ばれた灯油も貴重で、とても日常生活に使えるような状態ではなかったらしい。夜が明るかったのはせいぜい遊郭くらいのものだったという。月明かりがなければ、目の前は太古と同じ暗闇である。人類は新生代の昔からごく近代にいたるまで、新月の夜には歩くこともできなかった。
 「大鏡」には太政大臣藤原兼家の娘、超子が京都二条大路で夕卜をしたところ、どこからともなく白髪の老婆があらわれて、「あなたの願いは何事なりともかない、この大路よりも広くながく栄えるでしょう」と言いおいて、闇の中に消えていったとある。この占いをした超子はのちに贈皇后宮(三条天皇の母)となっているので、占いとしては成功の部類に入るだろう。ほとんど同じ占法が紀元前2世紀の東インドにも存在したことが、タミール語の歌集サンガムに記されているという。

 易は中国の春秋戦国時代にその肉付けがなされた。社会の動乱に人民が翻弄された時代である。したがって対処の基本は、いかにうまくトラブルを切り抜けるか、に重点がおかれている。古くさい修身の教科書のようにも思われがちだが、実質はサバイバル教本なのだ。少なくとも、目先だけの浅薄な選択をする人たちに向いた占いではない。
 もし易で得た回答に不満足な場合、これはその人が心に別の解答を隠し持っているということに他ならない。これに気がつけば、またひとつの解決策を得たことになる。
易学はゲームでもブームでもない。目立つことの裏側になにがあるかを知れば、売らんかなの占いがつまらなく思えてくる。

 

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