ユングやフロイトと並ぶ心理学の三大巨頭でありながら、なぜか知名度ゼロのアドラーさん。

アドラー心理学は低身長から生まれた?

 他人から見た自分はどんな人間なのか。
自己分析をすると多くの人が、自分は神経質で気が弱い、または無神経で鈍感だといったマイナス評価をしてしまう。自分に理想があるあまり、現実の自分を劣等だと思いこむのである。

 この劣等感という概念を発見したのが、ウィーンで生まれたアルフレッド・アドラー(Alfred Adler 1870-1937?)である。アドラー以前の心理学は、西洋医学のように個人をパーツ化して、還元論的に内部での分裂を主張したが、アドラーは東洋医学のように、人間は統一体であってその存在は分割できないと考えた。(現代になってやっと、人体は数え切れないほどの生化学物質がホロニックに統合されたものだという考え方が主流になりつつある)

 個人心理学はPERSONAL-PSYCHOLOGYではなく、INDIVIDUAL-PSYCHOLOGYと表現される。INDIVIDUALには個人という意味以外にIN-DIVIDE=分割できないという意味と、個性(INDIVIDUALITY)という意味が含まれている。個々にあらわれる症状を治療するのではなく、総合体としての人間を考察して、現実社会への適応をはかるのがインディビデュアル心理学である。根底には、人間のいかなる部分も全体と調和し、共同体意識で人類全体と一体化するという理念があり、それは神・摂理・自然・運命・理性は一体であるとする、ストア哲学のアパティアと同質かもしれない。

人は外界を支配できない。この意味で、人は運命に従うしかない。しかし、自分の考え方ならどうにでもできる。うまくすれば、いかに環境が変わろうと自分が左右されることなく、どんな悲しみにも翻弄されることのない、宇宙に根ざした安心が得られる。人はみなこの宇宙の理性を分かつものとして同胞であるから、人々は支配の関係ではなく、愛し合う関係になるべきなのだ。

 アドラー自身にくる病という器官劣等性(肉体的なハンディキャップ)があったことが、劣等感の発見につながったとされている。身長は150cmしかなかった。

大きな体はエネルギー効率が悪いので、進化として方向づけられるべきではない。
進化とは一方向で、後戻りできないものだ。適応力の拡大ではなく、ある一部分を犠牲にしつつ居住範囲をシフトさせることである。一方通行だから、巨大化によって絶滅したマンモスやアイルランドヘラジカのように、DNAに環境変化への対応策がプログラムされてない以上、ちょっとした規模の気候変化だけで種が根絶する危険を孕んでいる。

人の体の大きさを決定づけるのは、その地域の気温に対する放熱面積であって、遺伝の影響などは、地球レベルの時間変化でみれば取るに足らないことである。
暑い地域では、体重に対して放熱面積を確保するために体が小さくなり、寒い地域では体表面積をセーブするために身長が高くなる。これはベルグマンおよびアレンの生態学的法則と呼ばれていて、たとえば、南北アメリカのインディアンで、低緯度(赤道に近い)地方には身長が160cm以下の種族が集中し、高緯度(寒い)の地域には180cmにもおよぶ高身長の種族がみられる。

 身長の背(せい)の語源が勢力の「せい」から来ているように、身長はパワーの象徴であって、パワーは筋力とともに権力のことを表している。
背が低くて軟弱な男たちは「権力者」のイメージを伴うことが難しく、虚勢を張らずにはいられない。当然のように、いつも劣等感にさいなまれることになる。いくら賢くても、生死を分ける戦いの場で、非力であることは圧倒的に不利だからだ。したがって、背の低い男たちは、なにかほかの価値を身につけないとこの劣等感を克服できない。
社会には腕力や身長による順位のほかに、地位や権力・財力による順位、さらに知能順位、地域社会への貢献度順位などがあり、そのいずれかを満足さえすればコンプレックスから逃れることができる。頑張って、どれか手の届きそうなピラミッドに登るしかないのである。

 ドイツのオスカー・バルナックは写真の技術者だったが、背が低くひ弱なので、大きなカメラを使うのが負担だった。そこで自分でも使えるようにと小型のカメラを開発した。彼の造ったのが、現在の35mmカメラの元祖となった、あの名高いライカである。
 金門橋の設計者ジョゼフ・ストラウス。エッフェル塔の設計者グスタフ・エイフェル。ピーターパンの著者ジェイムス・バリー。元祖グラフィックデザインのロートレック。彼らはみな小男だったが、自分の劣等性を克服して素晴らしい仕事を残した。劣等感は成功へのモチベーションとして働く。うまく働けばバネどころでなく、もてる力の10倍、100倍の行動に駆り立てる原動力にもなる。
もちろんすべての人に人並み以上の才能が与えられているわけではない。出発点が低くて、平均値にたどりつくまでに相当の時間がかかる者もいるだろう。しかし彼らはただ、ほかの人より時間をかけているだけである。努力を放棄してはいない。不断の努力を怠って敗北者の道を選ぶのはたやすいことだ。努力を放棄するのに必要な口実などいくらでも用意できるのに、劣等感をプラスに働かせたのである。

 アドラーが遺した劣等感の概念は多くの問題を解決し、人々に希望を与えた。
現代でいう「劣等感」とは、他人と比べて自分が劣っていると感じるものだが、彼のオリジナルの概念とは少し違っている。理想の自分に対して現実の自分が追いついていない、という不足感がアドラーのいう劣等感である。他人とではなく、自分と比較するのである。現実の自分がいくら努力し成長しようが、理想の自分像はいつも絶対的に上にある。一生かかっても実現不可能な架空の自分像に対して、現実の自分が劣っていると感じるのが「劣等感」であって、それは完璧な自己への欲求から来るものだ。

  禅の世界に「長い竹、短い竹」という公案がある。

修行僧の清平が師の翠微に、達磨大師がなぜ中国に禅を伝えたかを問うた。翠微は弟子を誘って竹林に行き「この竹はこんなに長いなあ、あの竹はあんなに短いなあ」と言った。
まさしく論理的な思考の範囲を超えた禅問答である。なんのことやら手がかりさえ見つからない。しかしこの解答が、奇しくもアドラーの「劣等感」と一致している。
 竹林には年老いて枯れかかった竹もあれば、世代を交代した若い竹もある。背の高いのもあれば、低いのもあってどれひとつ同じものはない。美しいもの醜いもの、利用価値のあるものないもの。それぞれに独自の面目と立場があって、優劣は同じひとつの世界にある。平等の中に優劣が含まれて、すべてはひとつの輪の中。決して二元が対立する世界ではない。この象徴するものは竹も人間も同じはずだ。
 もし理想の自分というものが存在するなら、理想の竹とはどんなものだろう。
筍は竹ではないのか、若竹もまた理想の竹ではないならば、老竹が理想の竹なのか。
竹のいつが完成された竹といえるのか。ただ年齢を経るだけで完成するものではないし、完成された竹だけが竹なら、完成されてない竹は竹ではないことになる。つまり「理想の自分」だけを本当の自分として認めるなら「現在の自分」は自分ではなくなってしまう。アドラー心理学の基本も未完成な自分を認めることである。

 心理学の間口は非常に広い。集団心理学、行動心理学から社会心理学、およそ人の心の動きを扱うものはすべて心理学の範疇に含まれるが、これらのなかで今世紀最大の収穫は「無意識」の発見だとされている。ジークムント・フロイトやヨーゼフ・ブロイアーまたピエール・ジャネ、カール・グスタフ・ユングなどの努力によるものだ。
 自分の主人公は「自我」ではなくて無意識の自分である、という発見には世界中が驚いたらしい。それはキリスト教徒に、人は神が造ったものではなく、ほかの動物と同じであると宣言するのに等しいインパクトを与えた。しかし、なにも「汎性欲説」のフロイトだけが深層心理の存在に気づいたのではない。フロイトはたしかにそれまでタブーだった性を、みんなが抱える共通の問題として提示したが、彼の前には先駆者がいた。ジャネの「心理分析」の概念を「精神分析」と言い換え、ブロイアーの「精神的掃除」を「カタルシス」と用語だけ変えて有名になった。(と、反フロイト派は言っております)

 アドラーは劣等コンプレックス(自分の劣等性にこだわる態度)理論を確立し、人間に関する実践的な智恵 (人間知=Menschenkenntnis)の領域を体系づけた。フロイトの精神分析の亜流のように見られがちだが、実際はまったく独創的な学問体系なのである。

 


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ストレスという言葉が、本来の強調する・努力するという意味から、外部からの圧力・心理的な負担といった方向に変化してきたのは第一次世界大戦の頃かららしい。
それまでにももちろん戦争はあったが、近代兵器の出現によって、死の恐怖が何倍にも高まったことから神経症が芽生えてきた。人が、殺したくもない同胞の命を無理矢理に奪わねばならない状況に長期間さらされたとき、はたして正常でいることがまともなのだろうか。管理人いけだは、むしろ神経症になる人のほうが、人間らしく正常で、そのような状況でも平気な人が狂気なのだと思う。